指揮に垣内悠希、ヴァイオリンに辻彩奈
びわ湖定期Vol.12は旬の二人を迎えて
オール・シベリウス・プログラム

7月7日、七夕の日。センチュリーのびわ湖定期公演Vol.12は、オール・シベリウス・プログラムをお届けします。母国フィンランドの誇りを歌い上げた交響詩『フィンランディア』、シベリウスの名を一躍高めることとなった交響曲第2番、そしてシベリウスの唯一の協奏曲であるヴァイオリン協奏曲。1899年から1905年までの間に書かれたこれらの作品は40歳を前にしたシベリウスの旺盛な創作意欲を伝えるもので、まさにベスト・オブ・シベリウスとも言える選曲となっています。

ジャン・シベリウス(1865-1957)

さて、交響曲の作曲家として大成したシベリウス (1865-1957) ですが、若い頃の夢はヴァイオリニストとして認められることでした。ヴァイオリン協奏曲を書き上げることは彼にとってその夢の続きでもあったことでしょう。今回はこの作品の初演にまつわるエピソードについて、お話ししたいと思います。

シベリウスのヴァイオリン協奏曲は1904年に完成されています。初演にはヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターも務めたドイツの名手、ウィリー・ブルメスターがソリストとして予定されていました。ブルメスターは作曲に際してシベリウスに助言を与えるなど、両者の関係は良好でした。当時シベリウスは交響曲第2番の成功の中にいたものの、贅沢な生活がもたらした経済的な苦境に陥っていました。彼はそこから抜け出そうとヘルシンキ郊外のヤルヴェンパーという土地に終の住処となる住居、アイノラ荘(妻のアイノの名前にちなんで命名)を建築するのですが、これがまたさらなる圧迫を生むことになります。シベリウスは収入を確保するために予定を繰り上げ、都合が付かないブルメスターではなく若いヴァイオリ二スト、ヴィクトール・ノヴァチェクを起用して初演に臨んだのです。

ヤルヴェンパーでのシベリウスとアイノ
1915年に撮影されたアイノラ荘の様子

1904年2月8日、シベリウス自身の指揮によって行われた初演の結果は芳しいものではありませんでした。第2楽章を除いて冗長、という批評が大半を占めたそうです。同年のうちに再演も行われましたが、評価は同じ。この結果を受け、シベリウスは作品の改訂を思い立ちます。この時ブルメスターは改訂初演のソリストとなることを申し出、シベリウスを激励したと伝えられています。

フィンランディア 初版

改訂初演は翌1905年10月19日、ベルリンで行われました。オーケストラはベルリン・フィル、指揮にR.シュトラウスを迎えた演奏は一応の成功を納めます(今日の高い評価を獲得するまでには、今しばらくの演奏の歴史を必要としました)。しかし、この時ソリストを務めたのはコンサートマスターのカレル・ハリール。またしてもブルメスターではありませんでした。一説によると楽譜出版の都合によりコンサートの計画が出版社主導で進められたため、ブルメスターは蚊帳の外に置かれた可能性もあります。ここに至ってついにブルメスターも気分を害し、以後、シベリウスの作品には関わろうとしなかったという話が伝えられています。

ウィリー・ブルメスター(1869-1933)

今日、シベリウスのヴァイオリン協奏曲と言えばこの1905年改訂版での演奏が中心ですが、ここには19世紀ロマン派からの影響と同時に、それとは一線を画すような、シベリウス独自の響きも感じることができます。シベリウスの作品は後期になるにつれて抽象的な作風が強まり、いわゆるシベリウスらしさはそちらの方に顕著なのですが、このヴァイオリン協奏曲が持つシンフォニックな響きには、すでにそうした傾向が表れています。高い技巧を要求される独奏ヴァイオリンも華々しい歌の披歴に終わるのではなく、オーケストラとひとつの物語を分け合うような密度の高さがあります。この緊密な室内楽のような在り様が、シベリウスのヴァイオリン協奏曲の最大の魅力と言えるかも知れません。

今回のソリスト、辻彩奈は2016年に行われたモントリオール国際コンクール第1位。併せて5つの特別賞も受賞するなど、完全優勝と呼ぶにふさわしい快挙を果たしています。その時のファイナルで弾いたのがこのシベリウスの協奏曲。「ずっと弾き続けてきた大好きな曲。これで1位を取れなかったらしばらくコンクールで弾くのはやめようというほどの強い気持ちで臨んだ」と語っています。現在、この作品を最も力強く表現できるヴァイオリニストのひとりと言えるでしょう。指揮に迎えるのは、2011年のブザンソン国際指揮者コンク-ルの優勝者で、ウィーンを拠点に国内外で活躍する垣内悠希。陰影の豊かな音楽創りに定評があり、今年3月までは札幌交響楽団の指揮者を務めるなど、こちらもまた現在注目のひとりです。まさに今が旬ともいうべきふたりの顔合わせによるシベリウス。センチュリーもまた、ご期待に違わぬ演奏をお届けしようと思っています。

垣内悠希(指揮)
辻彩奈(ヴァイオリン)

びわ湖定期公演 Vol.12

2019年7月7日(日)

15:00開演(14:15開場)

どうも。ヴィオラの飯田です。

2011年7月に入団しまして、翌年に結婚しました。で、そろそろ子供も欲しいなという流れになるわけなんですが、なかなか授かりませんでした。こうなってくると夫婦間で微妙な雰囲気になってくるわけです。
「まあ悩んでてもしょうがないよね。旅行とか行っちゃう?」
「もういっそのことハワイとか行っちゃう?」
と盛り上がったわけです。しかし小さい頃から家族旅行といえば海より山だった私にとってはハワイなんて一生縁がないかもしれないと思っていたので、あまり現実感がなくふわふわした気持ちでした。かたや妻はというと、家族で何度もハワイに行っているハワイ大好き家族だというではありませんか。これは胸を借りるつもりで行くしかないーーそんな多少の違和感が残る中、浮ついたハワイ行きの計画を始めたのでした。

【初ハワイは2013年12月でした】

某大手旅行代理店のハワイ専門の窓口に行くと、ネット未掲載で妙に安いプランを紹介されました。詳しく話を聞いてみると宿泊先のホテルが大改装中で期間限定特別価格とのこと。決まりました。

ホノルル便は日本を夜出発して午前中に現地に到着します。機内ではろくに眠れず、しかもお腹もいっぱいの状態で急に常夏の空港に放り出されるわけです。空港ってどこも独特な匂いが立ち込めていますよね。そんな中一瞬フワッと香ってきたんです。トロピカルな香りが。ココナッツとマンゴー感強めと言うべきでしょうか。入国審査を終えてやっとの事で外に出て空を見上げると常夏の日差しが睡眠不足の目にささりました。うーんやっぱり暑いな。あれ!?…空気はカラッとしている!?

最高じゃないか!!

ダニエル・K・イノウエ空港から見上げた青空

それまで40年あまり、いわゆる「ベタ」なリゾートのために貴重な休みやお金を使うなんて馬鹿げているという曲がった価値観を固持し続けていた自分が急に恥ずかしくなりました。

【なぜワイキキが人気なのか】

やはりハワイといえばワイキキで、初ハワイのホテルもワイキキ地区を選びました。なんといってもビーチまで徒歩圏内だしコンビニやドラッグストアもたくさんあります。ショッピングという面でもハイブランドからファストファッションまで揃っていますし、食事をするにしてもジャンルや価格帯が幅広くあり、選ぶのも一苦労なほどです。ほとんどのお店に日本語のメニューが置いてありますし、店員さんが普通に日本語で話しかけてくることもあります。日本人にとっていろいろな意味で「ちょうど良い」海外リゾートということだと思います。

ワイキキビーチのサンセット

しかし、気がつくと周りが観光客(しかも半分以上アジア人)ばかりでちょっと残念なんですよね。人混みを避けて、さらにローカルなハワイを感じられるスポットにも行きたい ! ということでワイキキから離れたところに足を伸ばすというのもおすすめです。

【「バースストーン」で子宝祈願】

初めてハワイを訪れたときに読み込んでいたガイドブックによると何やらハワイ王族の出産の聖地なる石群があると紹介されていて、当時の私たち夫婦にとってまさに願ったりのスポットでした。「バースストーン」と呼ばれているその石群は現地の方々にとっては神聖な場所だということで、いざ到着してみると時間帯が早かったためか私たち以外にほとんど人影もなく、まるで時間が止まっているかのような不思議な雰囲気を感じることが出来ました。おかげさまで翌年長男が誕生したのですが、妻の妊娠が判明した瞬間真っ先に思い浮かべたのは「バースストーン」で祈ったことでした。ちなみに長男は10月生まれです。本当に我ながらよく出来た話だと思うのですが実話なんです。

なぜか石のまわりには草が生えていません

そんなわけで私のHawaiiは、単なる旅行先の地名としての「ハワイ」を超越した場所です。もちろんセンチュリーに入団したこと自体が私にとって人生の大きなターニングポイントなのですが、入団から8年間に起きた様々な出来事を思うと「ハワイ」というキーワード無しでは語れないでしょう。演奏のクオリティーも楽器の音色も全てハワイのためと言っても過言ではありません(笑)。近い将来またいつかハワイに行けるよう公私共々頑張っていきたいと思います。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

8月9日(金)のいずみ定期演奏会No.42ハイドンマラソンにはフォルテピアノに、近年共演の続く上原彩子を迎えます。ハイドンの交響曲だけでなく、ハイドンにゆかりの深い作曲家や、その作風に関連した作品も採り上げてお楽しみいただいているこのシリーズですが、今回上原が演奏する作品はモーツァルトのピアノ協奏曲第19番K.459。この作品が発表された1784年頃はまさにモーツァルトが24歳年上の師、ハイドンの後を追いかけていた時期に当たります。今回はそんな2人の作曲家の交流について触れてみたいと思います。

上原彩子(フォルテピアノ)

ハイドンとモーツァルトの出会いがいつのことであったか、正確な時期はわかっていません。しかしモーツァルトがザルツブルグを離れウィーンに居を定めたのが1781年ですから、その頃であったと推察されます。一方、この年、ハイドンは音楽史上画期的な作品『ロシア四重奏曲』を発表しています。弦楽四重奏曲において初めて古典的ソナタ形式を確立した6曲からなるこの作品によって、ハイドンは“交響曲の父”であると同時に“弦楽四重奏曲の父”として知られることとなったのです(当時弦楽四重奏曲の多くは6曲をひとつのセットとして出版されていました)。この作品の斬新さと時代を超えた価値をいち早く発見したのがモーツァルトでした。彼は『ロシア四重奏曲』を研究し、3年以上の時間をかけて6曲の弦楽四重奏曲を書き上げます。1785年、モーツァルトはこの6曲に献辞を添えてハイドンに献呈。これが今日、『ハイドン・セット』と呼ばれるモーツァルトの傑作のひとつとなるのです。1781年から85年にかけてのウィーン。2人の天才の交流が音楽史そのものを前進させていくような、まばゆい風景がそこにはあります。

ウィーンの街並み

ピアノ協奏曲第19番はこうした環境の中で、1784年に書かれています。自ら主催する予約演奏会で弾くためにこの年には6曲ものピアノ協奏曲が作曲されていて、第19番はその最後に書かれた作品です。第1楽章と第3楽章に彼自身のカデンツァ(※)を置いたこの作品はモーツァルトにとっても自信作のひとつであったに違いありません。6年後の1790年、神聖ローマ帝国皇帝・レオポルド2世の戴冠式においてもK.537『戴冠式』と並んで演奏された記録があることから、『第2戴冠式』の名前で呼ばれることもあります。さて、今回、特に注目していただきたいのが、上原彩子が演奏するフォルテピアノ。フランドル地方出身の製作者で、フランス、ドイツで活躍したルイ・デュルケン(1761-1835)の1790年モデルを再現した楽器を使用します。現代のコンサート用グランドピアノとはまったく違った響き。モーツァルトやハイドンが弾き、聴いていたかも知れない響きと言えるかも知れません。ロマン派演奏とはひと味もふた味も違った古典的な美しさをお楽しみください。

※カデンツァ:主として、協奏曲の終曲部分に演奏されるアド・リブ風のソロ(独奏)を指す。独奏者の演奏技巧を示すために挿入される華美な装飾的楽句。元来は独奏者の即興演奏だったが、次第に作曲者が書くようになった。

W.A.モーツァルト(1756-1791)
ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)

『ハイドン・セット』の出版に先立つ1785年の1月15日と2月12日に、モーツァルトがハイドンをウィーンの自宅に招いた記録が残っています。そこでモーツァルトは自らヴィオラを弾いて、一連の作品をハイドンに聴かせました。その時ハイドンは同席していたモーツァルトの父、レオポルドに対して、「あなたの息子さんは私が現在知っているすべての作曲家の中で、最も偉大なひとりです」と語ったと伝えられています。

いずみ定期演奏会 No.42
ハイドンマラソン

2019年8月9日(金)

19:00開演(18:00開場)

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